金滴酒造株式会社は田園が広がる北海道・空知管内新十津川町にあります。創業以来百有余年、当社の歴史や立地を振り返るとき、まさに地域に育てていただいた酒蔵ということができます。 当社の酒はすぐ近くを流れる徳富川(とっぷがわ)の伏流水で、地元産の米を、そこに住む人々が醸す、まさに地酒。その味わいは真綿のように柔らかく、ふわりと浮くように体の中に流れて、ほのかに甘い余韻をのどに残します。
金滴酒造株式会社は明治39年に創業しました。その歴史は新十津川町の歴史と深くかかわっています。
それでは弊社の歴史をひも解いてみましょう。
金滴酒造の沿革は、新十津川町の歴史と切っても切れない関係があります。
【新十津川町の生い立ち】
明治22年(1889年)奈良県吉野郡十津川村の大洪水で田畑が全村全滅の被災にあったおり、後に当社の設立発起人となり、取締役としても活躍する西村直 一(当時学生)らが、北海道へ移住し北方防備の重任に当たることは、十津川郷士先祖代々の忠君愛国の精神にかなうものであると、村民を説得して回った。
大水害により全村全滅、北海道への移住を決意。開拓の歴史は想像を絶する苦難の道でもありました。
こうして、北海道の新天地開拓を決意した2300人(600戸)が3回に分かれて神戸港から海路小樽に着き、11月6日から18日までの間に全員が今の滝川市(当時空知町)に集結を完了、屯田兵舎を借り受け1戸に4家族ずつ同居し越冬する事になった。
翌年6月、現在地へ集団移住し、ここに新しい十津川を という思いで新十津川村の建設に血と汗を流した。しかしながら鬱蒼たる原始林を開墾する仕事は簡単には進まない上、政府の救援にも限度があり、食物の心配 と寒さとの戦いで酒などというところではなかった。そこで入植者たちは記念日や祝日を除き、「会席酒宴ヲ為(な)スベカラズ」などと誓約書をしたため10 年間は絶対に断酒することを誓って、原野の開墾にまい進した。
「おどれな くらう おどれら つくろうらい」
この言葉から、金滴酒造は始まったのです。
16年後、田畑の収穫もある程度豊かになり、大地に実った米を使って初めて酒を飲んでも良いことになった。
『俺達の呑む酒は俺達で造ろうではないか』(大和言葉では、「おどれな くらう おどれら つくろうらい」)という発案により共同で酒造りを始め、西村直 一・宇治川伊三郎ら9名が発起人となり、総勢81名の賛同者を集めて明治39年(1906年)9月10日、当時全道でも稀に見る、更には北海道酒造業界で は初の、純法人組織として資本金1万円で『新十津川酒造株式会社』を設立した。設立時には500石の生産を計画し、洒銘を徳富川(とっぷがわ)・花の雫(はなのしずく)と称して発売した。
大正7年(1918年)当時の専務宇治川伊三郎は、ピンネシリ山麓を散策の途中、近くを流れる砂金川の水を飲もうとして、手からこぼれ落ちる水を見なが ら、『金の流れの滴』いうことから『金滴』の名を思いつき、これを商標として使うことを決め、酒銘徳富川を廃し、新たに金滴(きんてき)・銀滴(ぎんて き)・花の雫と称して発売、資本金も3万円とした。
同時に建物・設備等の整備を進めたが、昭和7年(1932年)には蔵人宿舎からの出火により、釜場・貯蔵庫・仕込蔵等約240坪を焼失した。10月には復旧工事を完了し、酒造りに精進し、幾多の品評会や鑑評会において優等賞・金賞を受け銘酒『金滴』の名を覇すようになった。
昭和11年(1936年)には創立30周年に当たり製成石数も894石に増やし、資本金も6万円と増資した。昭和19年(1944年)企業整備要項によ り、基本石数980石に決定されたが、転廃業者5者の基本石数2420石を買って製造を行い、資本金も18万円と増資した。また昭和20年(1945年)には食糧事情悪化のため製造を一時休止したが、昭和23年(1948年)・26年(1951年)と増資を続け、同年11月 に現在の『金滴酒造株式会社』と改称した。
更に昭和27年(1952年)・28年(1953年)・30年(1955年)と増資を続け、同年には店舗・精米工場等200坪あまりを新築し、翌31年(1956年)創立50周年記念式を挙行した。